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補助動詞の「やった」 [日本語教育]

NHK大河ドラマの影響で、買ったけれど途中でやめていた蜻蛉日記(円地文子訳)を再読した。恋文だけでなく、ちょっとした話や食べ物や花などを遣いの者に託して、やり取りしている。私たちがメールをやり取りするくらいの頻度で。遣いの者たちは大変だったろうなと思う。ほとんどの場合57577の和歌が添えられている。呼吸するように和歌を詠んでいる。また、すごくプライベートなことが書いてあるのにこのような日記が公開されて貴族たちの間で読まれ、それをお相手の藤原の兼家も公認、むしろ自分の和歌のレベルを見せたかった節もあるというのが、面白い。

その中の手紙のやり取りで、「・・・・と書いてやった。」の「やった」が気になってしまった。文脈から、書いて送ったという意味は分かるのだが、ちょっと軽いけんか腰という皮肉っぽいな内容だったので補助動詞の「やった」じゃないのかと読めた。

現代語では「書いてやった」は思い通りになったり、うまくやり遂げたりしたときに発する語だ。難しい内容を「書いてやった!」と言う。また、意地悪をして成功した場合にも使われることがある。

古文の文法を見ると補助動詞に上の使い方はなかった。
「見やる」のように、そちらの方へ向ける意味と、「いいもやらず」のように、すっかり最後までやる(いいもやらずの場合は最後まで言わないでの意味になる)の二つの使い方だけだ。

現代文の「書いてやった」に当たるところを古文で見てみると「とてやりつ」とだけあり、書いて送ったの意味しかないことはやはり確かだった。
例えば:
十日ばかりありて文あり。なにくれといひて「帳の柱にゆひつけたりし小弓の矢取りて」とあれば、これぞありけるかしと思ひて解きおろして、
 「思ひ出づる時もあらじとおもへども〈後拾作みえつれど〉やといふにこそ驚かれぬる〈れカ〉」
とてやりつ。
とか。

「てやりつ」とあるものも、「送ったという意味しかなかった」
まして我が心ちは心細うなりまさりていとゞやる方なく、人はかう心細げなるを思ひてありしよりは繁う通ふ。さて寺へものせし時、
 「はちす葉の玉となるらむむすぶにもそでぬれまさるけさのつゆかな」
と書きてやりつ。
(母の形見の袈裟を見て涙にくれているのと、朝露、浄土の蓮にかかる露を掛けた歌)

古文を読むのはなかなかハードルが高いが、一部分でも古文のままで読んでいきたい。
また、筆書きをしながら読んでいくのもいいので続けよう。


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